こんにちは、しょうえいです。
最近、アダム・グラント氏著の『Give and Take: Why Helping Others Drives Our Success』を読みました。
読み終えると同時に、ふとこんな問いが心に浮かびました。
「私はちゃんと“与える側”になれているのだろうか?」
今回は「自利利他(じりりた)」という仏教の教えについて、私自身の日々の内省や実践を通して感じたことを書き綴ってみたいと思います。
「私はお世話になっている人たちに何を与えられているのだろうか?」
住職としての日々の務め、法要や相談対応、葬儀やお盆の準備。
一つひとつは当たり前のようにやっていることでも、誰かの協力を得ながら行なっています。
「それが本当に“利他”になっているのか。むしろ与えていただいているだけではないか?」と思うようになりました。
そんな中で気づいたのは、「他者に与えること」は、必ずしも“直接的な施し”ではないということ。
むしろ、“自分自身を丁寧に整える”ことも、巡り巡って他者の支えになるのではないか?
それが、今回「自利と利他」について改めて考え直すきっかけとなりました。
仏教における「自利」〜自分を整えることは欲ではない〜
仏教では「自分自身を調える(ととのえる)」という姿勢がとても大切にされます。
これは決して“自分だけ良ければいい”という意味ではなく、自分という器をきちんと満たし、安定させること。
時間を取ることで、心に“余白”が生まれてきます。
たとえば、普段の生活でも、
- 朝に静かにコーヒーを飲む時間をもつ
- 家計簿やToDoリストを整えて気持ちをクリアにする
- 自分の感情をノートに書き出して整理する
といった行動は、まさに“自分を整える”実践です。
こうした時間を取ることで、心に“余白”が生まれてきます。
その余白があるからこそ、他者に対しても丁寧に接することができる。
たとえば、心が落ち着いているときは、誰かの言葉に過剰に反応せず、ゆったりと受け止められることが増えます。
「まず自分を整える」という行為は、単なる自己中心ではなく、大切な準備だと感じました。
仏教における「利他」〜自分を超えて、何かが巡る〜
“利他”というと、つい「誰かのために尽くす」や「自分を犠牲にする」というイメージを持ってしまいがちです。
しかし、仏教でいう利他はもう少し柔らかく、循環的です。
たとえば、ある人が職場や家庭で少しでも周囲の負担を減らそうと、
- 会議の議事録をわかりやすくまとめる
- 家族の予定を見える化して共有する
- 手続きや作業を効率化する仕組みを整える
といった工夫を重ねていたとします。
これらは直接的な“施し”ではないかもしれませんが、結果として周囲の安心や余裕を生み出しています。
「尽くす」ではなく、「巡らせる」。
この感覚こそが、仏教でいう「利他」の実践なのだと感じます。
自利と利他の循環構造〜マインドマップに表れた気づき〜
私は、自分の考えや方向性を整理するためにマインドマップをよく使っています。
書籍を読み、「自分を整えること(自利)」と「他者に与えること(利他)」がどうつながっているかを可視化してみたところ、面白い循環構造に気づきました。
- 整う → 落ち着く → 優しくなれる → 与えられる → 喜ばれる → また整う
まるで水が器からあふれ、それがまた自分に戻ってくるような。
「与えると減る」のではなく、「与えると増える」
ということを改めて感じました。
おわりに
私自身、「住職なのだから、与える側でいなければ」というプレッシャーを、どこかで感じていました。
しかし、「整えることそのものも、すでに与えることなのだ」と理解できるようになりました。
無理をして利他に励むのではなく、自分を大切にする中で生まれた“自然なめぐり”が、きっと誰かの支えになっていく。
このブログもまた、私自身が整える時間の中から生まれたものであり、読んでくださる方にとって少しでも“豊かさの循環”につながれば幸いです。
今日もまた、一歩ずつ、整えることから始めてみたいと思います。